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眠っていたのか、気を失っていたのかよく分からない。 その間に、おふくろとおやじの夢を見た。 おふくろは昔のようにきれいでやさしく元気で、おやじのもってかえってきたローストチキンをうまそうに食べていた。
「まあ、おいしい。どこのお店のチキンかしら?」
「もちろん、ダニヨーズのに決まってるじゃないか。お前はあの店がすきだから。なにしろ今はうんと食べて、ミルクを一杯ださなきゃいけないよ。どうだ、町一番の店のチキンは、さすがにうまいだろう」
「ああそうだったの。どうりで。子供たちがもう少し大きくなったら、みんなしてあのお店にお食事に行きましょうね」
おふくろはすっかり食べてしまうと、
「さあ、おまちどおさま、今度はチビちゃんたちよ」 と、俺たちにミルクを含ませる。
柔らかいオッパイを口に含むと、暖かいミルクが勢いよくほとばしって、俺の顔にかかった。 おれは、顔がグショグショに濡れるのもかまわず、ひたすら両手で乳房をもみしだきながら、餓鬼みたいに飲んだ。何しろ腹が減っていたんだ。
と、頭の上で声がした。
「かわいそうに、よっぽどおなかが空いていたんでしょうね。眠りながら飲んでるわ」
「本当。もうだめかと思ったのに。助かりそうね」
「さっき、車の脇にのびてるのを見たときは、死んでるんだとばかり思ったよ」
俺はガバと跳ね起きた。 俺をのぞき込んでいる顔、顔、顔。どれもみたことのない顔ばかり。 恐ろしさに身体中がブルブル震え、口に含んでいたミルクびんをすっ飛ばした。
「アアッ、チビちゃん、大丈夫よ、こわがらないで」
太っちょのお姉さんが、そう言いながら俺をつかんだ。 人間に触られるのは初めてだった。
エイプリル・イン・コーネルの店員たちも、いつもおふくろに餌をくれながら、なんだかんだと話しかけては、俺たちに触ろうとしたが、おふくろがいつも、
「食事はごちそうさま。本当に感謝しているわ。でも、子供には触らないでちょうだい」 と、毅然とした態度で宣言していたから、それでもあえて手を出すことはしなかったのだ。 でも、ここの連中は違う。 まるで、俺の命の恩人にでもなった気で、抱いたりなでたりする。 しかし、まんざら悪い気はしなかった。
連中が悪い人間でないことは一目で分かったし、それよりなにより、腹が減って、地獄に落ちてもいいから腹一杯ミルクを飲みたいという気分だったのだ。 しかも、情けないことに、俺はメチャクチャに疲れてもいた。 だから、だらしない話だが、ミルクを飲んで、飢えと乾きがおさまった次の瞬間、またぱったり眠り込んでしまったのだ。 ほんの三歳かそこらの、歩けるようになったばかりの人間の子が、丸三日間、恐ろしい目にあいながら、飲まず食わずで走り続けたと思ってくれ。 連中が、まともに考えたり、反応したりできるだろうか?
次の日、俺が目覚めると、へんてこりんな柵のはまった檻の中に、他の薄汚い子猫どもと一緒にぶち込まれていた。
「しまった。やられた」 と思ったが、もう遅かった。 そばには、昨日ミルクを飲んでいるとき、横で見ていたアンチャンが、白いドクターコートを着て立っている。 どうやら店の中らしい。 しかも、よく見回すと、俺の檻の中には子猫しかいなかったが、下の方の水槽には、ミドリガメやワニ、イグアナなぞ、気持ちの悪い連中がノソノソしているし、もっと恐ろしいことに、別のガラス鉢のなかには、タランチュラが、まがまがしいようすで俺を見上げている。 そう、それにあの薄汚いネズミの仲間のモルモットやらハムスター、それにイタチやリスまで、みんなそれぞれの檻から、店の中をいったり来りする人達を眺めている。
――フフン、これがおふくろの言ってた、ペットショップってやつだな―― ってことはすぐピンときた。
――て、事は、俺は売り物になったんだ。て、ことは、やがてだれかが来て、俺を買って帰るんだ。もしそれが変な奴だったら―― そう思うと、全身に鳥肌がたった。 そのとき、ドクターコートの男が俺の方へやって来た。
「おお、新入り君、目が覚めたかい? 君は本当によく寝るね。よっぽど疲れちゃったんだね。でも、君が寝ている間に診察したけど、どこも悪くない。少し休めばじき元気になるよ。虫下しも飲んだから、もし虫がいてもすぐ出るさ」 と、言った。
男は獣医だったんだ。虫下しだと? 何だそれは?
 そこへ2組の若い男女がやって来た。
と、白人の連れの東洋人――たぶん日本人だ――の娘と目が合った。
ウーン、こいつとなら一緒に暮らしてもいい。 目が覚めて最初に見た客なのに、俺は一目で魅かれるものを感じた。
「ウワーかわいい。こんなかわいい子猫、見たことない。ああ、このトラ猫、あたしどうしてもほしい!」
以心伝心。その娘も、俺が一目で気に入ったらしい。
「そうかな。ただのトラ猫だと思うけど。それに君のアパート、ペット禁止だろ? だいいち、休暇で日本に帰るときどうするの? 君んち、猫なんか連れて帰って、ママ怒らないの?」
「ウーン……今夜電話してママに聞いてみる。でも、大丈夫。何とかなるわよ。こんなにかわいいんですもの」
俺は娘の気を魅こうと、首をかしげたり寝転がったり、精一杯愛嬌を振りまいた。

日本娘は、コーネル大学の学生証を出し、ドクターコートの男に仮押さえしておいてもらえるかとたずねた。 「ええ、三日以内に必ず返事をくださるなら、とっておいてもいいですよ。なにしろ、ご存じのように、子猫って、大きくなっちゃったらだれも買い手がいなくなるんですから。このネコは、ザッシュといっても、トラネコにはめずらしくフワフワの中毛で、きっと何代か前にはペルシャも入っていると思います。きれいなネコでしょ? ちゃんと診察して、健康は保証付です。ご希望なら予防注射もしますし、今後病気になったときも、僕が診察しますから。僕もコーネルの獣医科の出身なんですよ。キャンパスの中に住んでいるんですか? だったら診察に来るのも近いし」
男は自分のコマーシャルも抜け目なくひとこと、さも俺のことをよく知っているみたいに売り込んだ。 ほんの数時間前、捕虜にしたばかりだって言うのに。
娘は、必ず三日以内に連絡するから売ってしまわないでと念をおして、後ろ髪を引かれるような顔付きで帰って行った。

それから三日間、俺は正直言って、本当にあの娘が来てくれるか、それとも日本のママとやらに怒られて、もうこれっきり迎えにきてはくれないのかと、おふくろと別れ別れになって以来初めて、本気で心配になった。
おふくろのことはあきらめていた。 兄弟とも、おやじとも、きっともう二度と会えないだろうということは、動物の本能でわかっていた。 そういうところが、人間と俺たちネコ属の違いなのだろう。 むだな期待は抱かない。 無理な望みはもたない。 常に自然に身をまかせ、その場に応じて臨機応変に立ち回る ――どうだ、人間の三歳児に、こんな哲学がわかるか?
それにしても、長い三日間だった。 寝ても覚めてもあの娘のことを考えていた。 他にも親子連れの客が何組もペットショップに来ては、あれやこれやと品定めをするが、ほとんどの親たちはきまって、 「ネコはよしなさい。たいへんだから。家を引っ掻いて傷つけるし、オシッコが臭いし」 なんて言う。 おしっこのくさくない動物がいたらお目にかかりたいものだ。 連中、ネズミのおしっこの臭いを知らないのだろうか? 俺の檻の下のモルモットときたひには、ワラを替えてもらっても、すぐまたおしっこだらけになって、俺のところまでツーンとアンモニア臭が漂ってくる。 いや、一番ひどいのはイタチで、ドクターコートの男が、毎日風呂に入れるのに、それでも鼻をつまみたくなるほど臭いがきつい。 一体どんな奴があんなものを買うのかと思っていたら、俺たちネコが臭いからやめろと言った夫婦が、買って帰ったのだから驚きだ。 人間って、俺たちと臭いの感覚が違うのだろうか?
待望の三日目、夕方近くなって娘がやって来た。白人のボーイフレンドも一緒だ。
「ごめんなさい、遅くなって。毎日毎日日本に電話して、やっとママを説得したの。今年は、クリスマス・プレゼントもいりません、お年玉もいりませんって、いろんな交換条件を出して」
俺を受け取った娘は気前よく、携帯用カゴも、俺の茶碗も、ランチマットも、餌も、オマルも砂も買い、現金でしめて五十ドル、ポンと支払った。 もちろんドクターコートは大喜びだ。
「僕の名刺です。急病の時なんか、夜は家に帰るんで、電話は通じないけど、留守電を残してもらえれば、すぐ折り返しかけます。さ、子猫ちゃん、かわいがってもらって幸せになるんだよ。それに君は僕なんかよりずっといろんなところへ旅ができるんだ。うらやましいくらいだよ」
当時の俺は、それがどういうことかはっきり分かっていなかった。 俺がギネスブックに載ってもおかしくないほど旅慣れた猫になるなんて。
その晩は、買ったばかりの安物の携帯用カゴが不安定で、妙にユラユラ揺れて、娘のアパートにつくまでにすっかり酔ってしまい、不覚にも、娘の部屋に入ったとたん、新品のブルーのカーペットの上にゲロゲロ戻してしまった。 苦しくて、目に涙を浮かべた俺に、娘は、 「ごめんね、ダニーの運転が荒っぽかったから、気持ち悪くなっちゃったのね。さ、お水を少し飲んで、私のベッドで早く休みましょう」 と、優しく背中をなでてくれた。
その晩、矢車草の柄がついたフカフカのコンフォターの上に丸まって眠った俺は、もう一度おふくろの夢を見た。 あの、インテリア・ショップの裏手のカゴの中で、俺はおふくろに抱かれ、他の兄弟たちと押し合いながら眠っていた。 そこへおやじが戻ってきたのだが、肩から血を流し、足はびっこを引いている。 びっくりして理由をたずねるおふくろの顔を、おやじは何も答えず、ただ悲しそうになめてやって、そのまま消えてしまった。
すると、おふくろも俺たちをそっと離し、後を追うようにスッと消えてしまった。 どこかへ行ってしまったのではなく、ただ、煙のように、朝になると月が見えなくなるように、フッと消えてしまったのだ。 後には、おふくろに抱かれていた温もりと、ちょっと長めで柔らかい、おふくろの毛の感触だけが、いやにはっきりと残った。
俺はガラにもなく泣いてしまった。 ちょっと声も出したのかもしれない。 気が付くと、娘が優しく俺にほおずりしながら、 「かわいそうな子猫ちゃん、きっとママが恋しいのね」 と、言った。 俺は、心を見透かされたようで照れ臭く、眠ったふりをしていた。 でも、娘とは仲良しになれそうな気がした。
俺の新たな出発だった。
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